むかしむかし、あるところに、貧しいきこりの子の兄妹がおりました。
クリスマスの夜、よい魔女が、青い鳥をさがして来なさいとふたりに言いました。
ふたりは、犬と猿とキジをつれて、青い鳥をさがしにでかけました。
死者の国、未来の王国、なんかの国、他の国、また死者の国・・・青い鳥をさがしたけれどもみつかりませんでした。するとついに、森の中で、道がわからなくなってしまいました。それでも歩いていくと、森の中に、お菓子でできた家をみつけました。「窓を食べなよ。ぼくは屋根を食べるから。」兄は妹に言いました。
お菓子の家を一心不乱に食べているふたりを、悪い魔女が見つけて、兄を檻に閉じこめて、妹には飯炊きをさせました。兄にさらに大量の美味しいものを食べさせて、ぽっちゃりしたら食っちまおうというのです。
しかし、賢い妹は、パンの焼き方がわっかんなーい!とおバカなふりをすると、かまどの火のぐあいを魔女にのぞかせ、えいっ!なんつって魔女をおかまに押し込めてしまいました。
魔女は、かまどの中で大きなパンになりました。食べたら美味しいのでどんどん食べてぽっちゃりしました。
ようやく自分たちの家に帰ってきたとき、ふたりはすべてが夢だったことに気づきました。
そして、青い鳥は自分のとこで飼っていた鳥でした。
以上がさるおバージョンである。
さるおは、どの部分が『チルチル・ミチルと青い鳥』でどの部分が『ヘンゼルとグレーテル』なのか、まるでわかっていない。完全にまざっている。この話の教訓はなんだと聞いたら、「食べられそうになってあぶなかったけど、やっつけて、パンを食べた」と「おなかがいっぱいになって元気が出たら、案外おうちは近かった」だっ
て。教訓という言葉の意味すらわかっていない。おまえからいったい何を学べばいいのだ。さてはさるお、兄の名前はヘンゼル・チルチル、妹の名前はグレーテル・ミチルか。
ジャガー横田 対 グレーテル・ミチル
女子プロかよーっ!
さるお君はとりあえず、犬と猿とキジではないというところから始めてください。ゆっくりでいいから。
正しくは以下のとおり。
『青い鳥』メーテルリンク作
貧しいきこりの子の兄妹チルチルとミチルはクリスマス・イブの夜、よい魔女に、隣の家に住む足が悪くて歩けない病気の娘をたすけるために青い鳥をさがして来なさいと言われる。ふたりは、犬のチローと猫のチレット、パンと砂糖と牛乳、それから火と水と光の精霊をともなって青い鳥を探しに出かけ、思い出の国、死者の国、夜の宮殿、精霊の棲む森、未来の王国、幸せの国など冒険しながら青い鳥を探すが見つからず、ようやく自分たちの家に帰ってきたときに目が覚めて、すべては夢だったことがわかる。そして探していた青い鳥は家で飼っていたキジバトだったことを知る。
『ヘンゼルとグレーテル』 グリム童話
ドイツの深い森に、貧しいほうき作り職人の夫婦ペーターとゲルトルート、それにふたりの子供ヘンゼルとグレーテルが住んでいた。ある日、母親の言いつけで森へ野いちご摘みに出かけたヘンゼルとグレーテルは、森をどんどん進むうちに道に迷ってしまう。ふたりは歩き疲れて眠ってしまい、次の朝、ふたたび森をさまよい歩いていると、美味しそうなお菓子の家をみつける。しかし、そこは、子供を食べてしまう恐ろしい魔女の家だった。お菓子の家を食べていたふたりは、魔女にみつかり捕まってしまう。ヘンゼルは檻に閉じこめられ、グレーテルは食事の準備をさせられた。ヘンゼルに美味しいものを食べさせ、太ったところで食べてしまおうとしているのだ。しかし、賢いグレーテルは、パンの焼き方がわからないから教えてほしいとかまの火の具合を魔女に覗かせ、彼女をかまに押し込めてしまう。すると、魔法でお菓子に変えられていた他の子供たちが元の姿に戻り、グレーテルが触ると動けるようになった。魔女は、かまの中で大きなパンになっていた。
ヘンゼルとグレーテル、二人を探しに来た両親、そして子供たちは、魔女をやっつけたことを喜び、神様に感謝の歌を歌いましたとさ。
まぁね、こっちもしょーもないヨタ話だ。さるおバージョンと大差ない。
そもそもこういうおとぎ話には必ず教訓が含まれていると考えるのはオトナだけだと思う。"ためになるお話"であってほしい、そう考えたいだけだろう。
本来の姿は純粋に、"おもしろいお話"であっていいはずだ。
とりあえず、『ヘンゼルとグレーテル』に何か言いたいことがあるとは思えん。"大きなパン"に教訓なんてあってたまるか、ヨタ話だ。
では『青い鳥』についてちょっと考えてみたい。こちらはどうにか教訓めいたものがありそうだ。
ノーベル賞受賞作家の著者モーリス・メーテルリンクがこの作品を書いたのは1908年。舞台演劇用の台本として執筆した。それを文化勲章受章文学者の堀口大學さんが翻訳している。そしてこの堀口くんは、「幸福は、遠いところにさがしても無駄、むしろそれはてんでの日常生活の中にこそさがすべき」というのがこのお話の教訓だと思っているらしい。もちろん原文を目を皿のようにして読んだ堀口くんがいちばんこの物語に詳しいのは否定しないけど、その解釈はなんとなく美しすぎて"感想文"に思えてならない。
この話の教訓は本当に、"幸せは身近なところにあるものだ"だろうか。
よく"幸せの青い鳥"というが、そもそもこの青い鳥、本当に幸せの鳥なんだろうか?
いやいや、お線香の"青雲"のCMのせいだろうか。
青雲、それは、君が見た光、僕が、見た、希望、青雲、それは、ふれあいの、心、幸せの、青い雲〜♪
そらきた。
答えは隣んちの足が悪いお嬢さんである。歩けなかった彼女はグレーテル・ミチルに青い鳥をもらって歩けるようになっているのだ。効果てきめん、幸せの象徴であるところまではいいだろう。
では、家に帰ってきたときに、夢から覚めて、「うちの鳥、青いベよ」と気がついたのはなぜか?
これは、長旅して苦労したから気づいたんである。血眼になっている最中は決して見つからないが、探してなければ気づくこともなかった。つまり、探し求めて初めて、自分のそばには常に幸せがあったことに気づけるのだ。いい感じの教訓である。
これを教えてくれたのは"よい魔女"である。この教訓に基づいて考えれば、グレーテル・ミチルはそれまで幸せを求めもせずに自分の不幸を嘆くような"気づかないタイプ"だったのかもしれない。だから、ミチル自身のためにも"よい魔女"は長旅を命じた、ということになるだろう。自分の不幸に文句を言うコドモか、嫌だな。
それでは、いったい誰のための幸せか?
グレーテル・ミチルは自分の幸せのためにじゃなくて、隣んちの娘のために、はるばる大荷物で旅に出ている。他人様の幸せのためだ。
エライ!
人のために尽くそう。それを教えてくれたのも"よい魔女"である。
情けは人のためならず。いい感じだ。
いずれにしても、何年も隣んちのお嬢さんを待たせっぱなしで実際に旅をすることはない。夢で充分だ。
さてここで、この話のエンディングを思い出してみよう。
たしか、青い鳥は隣んちのお嬢さんにもらわれて、そこんちで飼われることになる。ほんで、エサをやろうと思ったら逃げちゃうんじゃなかったか。ほんで、お嬢さんにあげたはずなのに、元の飼い主グレート・ミチルが「みっけた人はとっつかまえて、あたいらに返してくれ」と読者に語りかけて終わるんじゃなかったか。
グレート・ミチルの幸せは去って行ってしまったから、誰かなんとかしてくれ、か。そういうのを他力本願っていうんだ。そんなことガキに教えちゃまずいぞ。おかしなことになってきた。
人にやっちゃったんだから、もうおめーさんのもんじゃぁないぜ。
なんで"あたいら"なんだ。
それは、グレート・ミチルにも、チルチルにも、お嬢さんにも、みんなにとって必要だからだろう。
幸せは、ひとりのもんじゃないからね。
しかーし、幸せは長続きはしないのだ、いつの間にか去って行ってしまうぞ。それが本当の教訓か?夢がないな。とにかくグレート・ミチルは「あたいら、幸せに暮らすために、いつかきっとあの鳥が必要になるだろうから」と続けている。将来、困ることもあるだろう、と言うのだ。ガキの言葉とは思えん。コド
モは今を生きればいいのだ。夢がない。
グレーテル・ミチルにいろんなことを教えてグレートなミチルにしようとした"よい魔女"、なんとなく徒労に終わった気がして気の毒だ。
青い鳥は独り占めしてはいけない。だからグレート家から移動して、隣の家のペットになった。お嬢さんも歩けるようになった今、青い鳥を必要としている別の誰かのところに行くのだ。それを、あの鳥が必要になるかもしれないという不確定な未来のために、返せと言う。なにごとだ!グレートよ、幸せはおまえひとりのものではない!
グレート兄妹の奉仕の精神は美しかったが、今度は観客に向かって、自分たちのためにそれをやれと要求している。いつかまた青い鳥が手元にやってきたらよろこぶのは素直でいいが、人様に奉仕を要求してはいかん。見返りを想定したボランティア精神と言うのはぜんぜん美しくないのだよ。
グレート・ミチルよ、おまえはまるで社会のようだ。意地汚い。
で、結局、教訓は何なんだ。
探し求めれば幸せは身近にあるけれど、長続きはせんので将来困ったことになる、がめつくその手につかんでおけ。
それでいいのか、グレート・ミチル。
「パンを食べたら、案外おうちは近かった」より多少マシか。このへんで許してあげよう。