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ヨタばなし★スターメンバー バックナンバー:vol.34

●カンボジア


カンボジアに行ってきたスタッフの熱き想い。
これを発行するにあたり、何度も何度も読み返してみました。豆知識満載なので「80へぇ〜」ぐらいはとれるかと思います。これからカンボジアに行こうと思っている人は、ツアーガイドとして持参すると、より一層この国のことを理解できるようになるかもしれません。いつものことながらの長文なので、仕事の合間や休みの日にのんびりとお読みください。



カンボジアに行ってきた。いいところだ。僕は旅行が大好き。何十年かかっても、何百年かかってもいいから、世界中をくまなく見て回りたい。僕は【国境】という意識が薄いので国単位の数え方は好きではないが、今【僕の好きな国ランキング】の1位をイタリアとカンボジアが競っている。

カンボジアと言っても広い。今回のターゲットはアンコール遺跡。観光地といってしまえばそのとおりなのだが、まだまだ充分にさりげない部類に入る。遺跡はもちろんホンモノだし、町も人も、擦れていない。僕は、何でもかんでも【はりぼて】でできているようなわざとらしい場所や、商いの町に成り下がった観光地が嫌いだ。ちなみに、大都会やリゾートより人々が普通に暮らしている場所が好きである。リゾートというのは本来、都会の人が田舎暮らしをちょっとやってみてリフレッシュする場所という意味だが、ここでいうリゾートは、南の島かなんかで海があるのにプールもあって、白い寝そべりイスに寝ちゃって、トロピカルなカクテルなんかも飲んじゃって、プライベートビーチで日焼けもしちゃうような、青い空と青い海に挟まれた白い砂浜みたいな場所である。

今回僕が滞在したシェムリアップという町はアンコール遺跡に近い小さな町である。
空港には小さなプロペラ機しか離着陸できない短い滑走路が1本あるだけで、古い体育館のような四角い平屋に、30年前の日本で学校の先生が使っていたような木製の机が2つ、入国審査のおじさん用に並べてある以外は何もない。僕が到着したのは夜で、その時間の空港の従業員は10人弱。少ないようにも見えるが、旅行客の人数も同じようなものなので、比率だけで考えればサービス過剰である。コンクリートの壁にまるで水玉模様のようにはりついたヤモリを数えて待っていると、おにーちゃんたちがどんどん荷物を床に並べてくれる。エアコンなどはないのでひたすら蒸し暑い。荷物をひきずって出口から1歩出ると、そこはもう土の上。空港の正面玄関の前といえども舗装なんかはしていない。見渡す限り街灯もなく、本当に本当に真っ暗であった。

アンコール遺跡というのは、広大なジャングルの中の東京23区ぐらいの広さのところに700以上の遺跡が点在する遺跡群のことで、その中にアンコール・ワットやアンコール・トムといった寺院がある。アンコール王朝は37人の王様によって9世紀から15世紀までじつに630年間続き繁栄と栄華を誇ったが、タイのアユタヤ王朝に滅ぼされ、ヒンドゥー教寺院は仏教寺院に作り変えられた。

ヒンドゥー教の神様でビッグ3といえば、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァである。
ブラフマーは宇宙を創造した神様で鷲に乗っている。口承で語り継がれてきた古〜い神様で、寺院建設が盛んになる前に人気が落ち目になってしまったので、像はほとんどない。ヴィシュヌはトランスフォームが得意な救済の神様で、キリスト教の博愛精神とよく似た教えのバクティ派などの人々を中心に愛されている。この神様が化けて出たのがたとえばクリシュナである。シヴァは牛に乗っていてシャクティという名前の超キレイな奥さんがいる、破壊と創造の神様。元は原始的な土着の神様で、他の神様より遅れてヒンドゥー教に迎えられた。怖い顔の像が多いが、けっこう家庭的なやさしい顔をしているときもある。ヒンドゥー教では神様はみんな若いことになっているので、老いた姿の神はいない。

ヒンドゥー教の教えの根本というのは、「神は万物の中に偏在し、自分もまたその一部。人間の数と同じだけ宗派があり、様々な宗派の祈りは多くの小川の流れにも似て、大海のごとき神へ、ともに流れ込む」というものである。つまり、教えそのものは崇高で、断固たる一神教なのだが、方法論にはこだわらず、拝んでもよし、親切してもよし、なんでも来いのおおらかさを持っているのだ。多くの場合、人々は土着の神様が進化した様々な神に祈りを捧げ、その神様がよしとするルール通りに生きる。つまり、ビッグ3を含むすべての神様は、姿なき存在=名なき神に人々が与えた姿と名であり、それらを通して、偉大な何かを知ろうというのである。ブラフマーもヴィシュヌもシヴァもみなひとりの神の異なる姿であるから、当然いろんな宗派が存在し、それぞれが、神と世界の関係や、再生と解脱(いつかは死んでしまう人間としての束縛から抜け出すという、仏教でいうニルヴァーナ)を説明している。ヒンドゥー教徒に怒られるかもしれないが、この思想は一神教という核を持った多神教である。

ヒンドゥー教の思想は、僕の発想にものすごく近い。僕は「いわゆる神様」は無視することに決めているが、自分自身のことは信仰している。あたしゃ神様だ〜、というのではなくて、自分自身を単純に信じているにすぎない。僕が僕を信じている以上、神様は僕の心の中にいる。僕はそれを知っている。初めに僕ありき。初めに人ありき。ヒンドゥー教徒もまた、様々な姿の神を通して、自分自身を見つめているのではないか。

ヒンドゥー教の教えの中に、僕がいいなぁと思う節がいくつかある。

祈りを捨てよ。
すべての扉が閉ざされた薄暗い寺院の片隅で、いったい誰に祈るのか。
目を開け。
そしてあなたの前に神はいないことを悟れ。
荒地を耕す農夫のそばに、石を砕く道路工夫のかたわらにこそ神はいる。
あがめなければいけないのは、人工の神ではなく、心の中の神である。
神は私の先祖、神が私のカースト。
私は全能者の子である。

神を知っているという、この信仰の純粋な確信は、ここまでくれば美しい。

ヒンドゥー教には開祖がいない。ヒンドゥー教はインドからやってきた。インドという国について考えると、ヒンドゥー教におけるカースト制の意味とかインドの発展におけるカースト制の意味とか、いろいろ考えるところがあるんだけれど、それはそれでおいておこう。ところで、もっとも成功したヒンドゥー教の異端といえば仏教である。こちらは、ヒンドゥー教の教えを発展させ、仏教という新しい思想を確立したという意味で元プリンス(ネパールのシャキャ族という部族の王子様)のイケてる思想家ゴータマ・ブッダだけを別格扱い。奥さんも子供もいて、自分は王子様なのに、世の中ってなんか納得できなくな〜い?かなんか言って呑気なことに家を飛び出し、うろうろと菩提樹の下までやってきて居眠りぶっこいてたおじさん、ということ以外、ブッダという人のことはよく知らないが、仏教ではブッダを頂点に、ヒンドゥー教由来のキャラクターがぞくぞく登場している。たとえば、アンコール朝時代のカンボジアのヒンドゥー教徒の間で大ブレイクし、人気、実力ともにナンバーワンだったシヴァが、仏教ではなんと、如来でも菩薩でない、如来のお使い係として、降三世(ごうさんぜ)明王という名前で登場する。しかもこの明王の像は、勝った!という顔で、元祖ヒンドゥー教のシヴァを左足で踏んづけてしまっている。悪しきものだとでもいうつもりか。もちろん右足が踏んづけているのは、シヴァの美人妻。かわいそうに。元祖対異端の熾烈な戦いである。他にも、ヒンドゥー教の富と美の女神ラクシュミーは吉祥天、学問の女神サラスヴァティーは弁才天、知恵の神ガネーシャは歓喜天という設定でそれぞれ登場している。上杉謙信の旗印でかっこいい毘沙門天や、鬼子母神もヒンドゥー教をルーツにしている。こわいことに、宇宙を創ったという輝かしい実績を誇る、超イケてる全能の神ブラフマーにいたっては、ブッダのボディガード、梵天
さんである。ヒンドゥー教のキャラクターは、明王や、天部(ナントカ天)に属していて、如来や菩薩の下に位置している。如来というのは読んで字のごとく、来る、という意味で、迷える僕たちを救済するために浄土から迷界に来てくれる仏さんである。
釈迦如来はブッダ自身で、ひとりでは手が回らないので、ブッダの化身である他の如来も忙しく働いている。菩薩というのは悟りを求める修行中の求道者で、すべての生き物の救済に奔走する如来候補生のことである。日本においてはブッダそっちのけで観音さんが大ブレイク。観音さんにもいろいろあるが、いずれにしても菩薩なので、肩書きとしては如来の下である。しかし頂点に君臨していたはずのブッダを如来扱いにしてしまうと、阿弥陀如来やら薬師如来やらとやっぱり同格にも思えるわけで、「いったい誰が一番エライのか」という考えてはいけないことを考えてしまうのは僕だけか。

ヒンドゥー教のトップで破壊と創造を司るシヴァ神と、それを踏んづけちゃうのが明王でしかなくはるか上にブッダが君臨する仏教。勝負勝負!元祖と異端はなぜか知らないが勝負しなければいけないのだ。どっちがエライ!ほれほれ!なにしろヒンドゥー教ではブッダをヴィシュヌの9番目の化身としか思っていない(13世紀のジャワではシヴァ=ブッダとして崇拝されたこともあった)。対する仏教はブッダひとりをアイドル視。これだけたくさんのヒンドゥー教のキャラクターをブッダの下にキャスティングしておいてメいろんな神様がいるように見えてもそれぞれ化身にすぎないので結局のところすべての仏はひとつモという間の抜けた言い逃れはなんだかちょっとしらじらしいな、と思う。がしかし、これでもまだまだ水面下の戦いである。こんな程度で仏教批判をする気はない。なにしろこの戦いが水面から出てしまっているのがイスラム教とキリスト教の関係である。ヒンドゥー教と仏教の関係をなんでもかんでも10倍大袈裟にしたようなものだ。多神教であるユダヤ教から、人間の開祖がいるイスラム教がうまれた。そしてそこからまた神の子というかなり苦しい設定で、ひとりの人間、イエスをヒーローにした異端がうまれ、それなりにうけた。キリスト教におけるイエスの特別扱いは仏教の比ではない。こうなるとイスラム教とキリスト教はお互いに負けるのは嫌なので、イスラム教はイエスをただの人(預言者のひとり)と言いはり、キリスト教ではイエスを旧約を白紙にして新約をむすんだイケてる神の子にしてしまった。僕としては、ちょっとずっこけてしまう。程度の差は大きいが、話の展開はそっくりである。

どちらの関係においても、元祖がしなかったことで、異端がしたことがある。仏教は徳により、キリスト教は愛により、人を神の位置まで引き上げたのだ。人間ブッダは釈迦如来という仏になり、人間イエスは神の子になった。

世の中は似ていることだらけだ。人のイマジネーションというのは、けっこう限界がみえみえである。ギリシャ神話もローマ神話もゲルマン神話も北欧神話も、ヒンドゥー教神話に驚くほどよく似ている。ゼウスやユピテルやティールやツィウという名で各神話に登場する神々は、またの名をディアウス、ヒンドゥーの太陽神である。

おおらかな教義で宗教戦争を避けようという思想のヒンドゥー教社会が優れた哲学を持っているのは間違いない。宗教戦争をくいとめられない宗教が神を語るのは、いくらなんでもおこがましい。

気に入った神様がいればまつってみる、というのがいいのではないかね。そもそも多神教のほうが自然でいい。山には山の、海には海の、風には風の神様がいる。神の姿を、自然そのものではなく人格神にしたあたりからすでに、宗教はおかしなことになりはじめているのではないか。人類は、どの神様を自分のアイドルにするか、というのでたびたび戦争をしてきたが、結局のところほとんどの宗教は、反省はおろか、まるで進歩していないのではないか。人間が思いつくことだから、そのあたりが限界なのだろう。

ま、宗教そのものはどうでもいいのだ。イエス・キリストといわれても、世話好きな人もいたもんだと思うだけだし、ブッダにいたっては、ものすごいパーマネントをあててるなと思うのが関の山だ。なにしろ煩悩だらけの僕には煩悩が理解できない。どうせ僕はお寺に行っても教会に行っても、おごそかな気持ちにはならない。アンコール遺跡でもヨーロッパのほうの教会でも同じなのだが、人の心と文化と生活を結びつける、建造物という名の手がかりとして眺めているだけである。いいかげん、話をアンコール遺跡群に戻さなくては。


僕が今回見てきたアンコール遺跡群ではだいたいシヴァがまつられている。シヴァ人形は寺院の中心にある塔の一番高いところにまつってあって、垂直に近い石の壁をよじ登らないと近づけないようになっている。そーゆーキケンな塔のひとつに実際に登ってみたが、行きはよいよい、帰りは泣きそうだった。下りはこわい。上から見ると、なんだかしらないが垂直に見えてしまう。雨期に出かけた僕がバカなのだが、下ろうと思ったら雨まで降ってきた。どうにか階段状の足がかりはあるのだが、何しろ幅が狭い。クメール人の足がどれほど小さかったか知らないが、とにかく僕の足は乗らないようにできている。だからといって、飛び降りられる高さでもない。宗教的な意味合いとセキュリティーの問題なんだろう。後者としては完璧である。「本当は何がまつってあったのかあやしいな。僕が王様だったらこれだけ立派なお寺を造らせておいて、くだらないものをまつっちゃうな」ついつい僕は疑惑の目で見てしまった。わざわざ人が近づけないように造るわけだから、何を安置しようとそう簡単にはばれない。ちなみにこれは、塔から下りて、涙を拭いて、ほっと落ち着いてから考えたことである。

寺院は基本的にどれもみんな同じ構造で、上から見ると正方形の、城壁のような石壁に囲まれ、7つ頭の蛇やライオンやガルーダたちに守られている。参道から、東西南北にあるアーチのうちの正門をくぐると左右の聖池のむこうに第一回廊がある。正門はたいてい東を向いている。反対側にある西門は通称メ死者の門モで生きている人は通らない。有名なアンコール・ワットは例外で、救済の神ヴィシュヌをまつり、西を向いている。さらに先に進むと経蔵をはさんで第二回廊があり、北西、北東、南西、南東の角に1つずつ、塔が建っている。その内側の少し高くなったところにも回廊とより高い4つの塔があり、中心に一番高い塔がある。つまり、幾何学的でフラクタルな構造の繰り返しが基本になっている。巨大な曼荼羅であり、小さな宇宙がそこにある。曼荼羅の中心、宇宙の中心にあるのが、王様たちはまじめにシヴァをまつったかもしれないが僕だったらくだらないものをこっそりまつってしまうであろう、デンジャラスな塔である。

寺院は細部にいたるまで、彫刻で埋め尽くされている。寺院によっては、当時の人々の生活の様子や戦争の様子が描かれている場合もあるが、お決まりになっているのが宗教画で、天地創造や神話のワンシーンである。ヒンドゥー教の天地創造は乳海攪拌といって、54人ずつの神様チームと阿修羅チームが蛇をロープがわりに綱引きをやったら、ちょうど真ん中にあって蛇が絡み付いていた山が、どちらかに引っ張られるたびにぐるんぐるんと回り、海が攪拌されて泡立ち、その泡がはじけてアプサラという天女や他の生き物たちが生まれた、というものである。アプサラは大人の女性の姿だが、キリスト教でいえばエンジェルといったところか。

アンコールの遺跡群は石造りだが、もろい石を使っているので風化が進んでいる上、アユタヤとの戦争で焼かれているので黒ずんでいる。火に焼かれ、雨に浸食され、木の根に破壊され、いつしか寺院はジャングルに覆い隠された。かつてインドシナ半島を制覇したアンコール王朝は消滅し、熱帯のジャングルに建造された神々の家に長く暗い冬がおとずれた。

その後のカンボジアの歴史は順風ではない。植民地時代を経て、隣はベトナム戦争、国内は内戦、ポル・ポト政権が成立してからベトナムとの関係は悪化しカンボジア侵攻と内戦激化、もう踏んだり蹴ったりである。しかたがないので国連が問題解決に乗り出し、どうにか新生カンボジア王国として生まれ変わった。

そして今700年の時を経て、アンコール王朝の栄華の軌跡、ジャングルの中の曼荼羅が目を覚まそうとしている。一度は人々から忘れ去られた荘厳な神々の家がジャングルの中からひとつまたひとつと発掘され、世界中の研究者の手によってその巨大な芸術作品が修復されはじめている。

ジャングルの濃い緑に覆い隠され、赤土の上に建つ、朽ち果てた巨大な石のモニュメント。それはとてつもなく美しい。

人が作ったものというのは、朽ち果てていくからこそ美しい。僕はそう思う。目を閉じると、僕の知らないかつてのアンコールワットが瞼に浮かんだ。広々と長い回廊、黄金に塗られたレリーフ、スタイリッシュな陰影をみせる連子窓、高くそびえる5本の塔、2本のサトウヤシの木、青い空と赤い大地・・・聖池にそれらが上下反対になって映っている。もうどちらが本物でもかまわないと思った。

話は変わるが、僕が滞在したシェムリアップの町は、メインストリートが南北にほんのちょっとあるようなないような、ものすごく小さな町であったが、町中でも遺跡の回りでも、物売りや物乞いをする子供たちのなんと多いことか。彼らの多くは手足を地雷で吹き飛ばされている。「ワンダラー、ワンダラー」子供たちは杖をつきながら、そう言って近づいてくる。ワンダラーでカンボジアを救うことはできない。ワンダラーでは足りないという意味ではなくて、結局彼らは自分の足で這い上がらなければならないという意味だ。もちろん僕だって、地雷なんつーもんは置いてった大人が片付けりゃいいと思う。子供が歩く前に大人が歩いてみましょう、と思う。小学校にあがるくらいの歳の子が、オトナの勝手なもめごとのせいで片足を吹き飛ばされて物乞いをしているというのは、なんだかとても腹が立つし、涙が出ちゃって見ていられない。でもそういう現実がある以上、彼らは彼らの力で、町や国や経済力を立て直さなければならない。外国相手の戦争で埋められた地雷ではないだけに、怒りも悲しみも行き場がない。

僕はおみやげを買おうと思って、現地の人に「カンボジアといえばおみやげは何?」と聞いてみた。ぜひともカンボジア経済に貢献しなければ!しかーし、「カンボジアには何もない。アンコールワットTシャツはどうだい?」と言われてしまった。これはまずい。経済が立て直せないじゃないか。両隣の国をみても、たとえばタイにはシルクがあるし、ベトナムにはバッチャン焼がある。というか両国ともそれだけではない。間に挟まれたカンボジアだけが何もないとはどーゆーことだ。そーいえば、シェムリアップの町はホテルラッシュであった。観光収入といってもおみやげがない以上、まさかとは思うが、旅行者の飲食と宿泊とバイクタクシー業務だけで法外な値段をとってなんとかやっていく魂胆か。とにかくカンボジアが、アンコールワットで一旗あげないとまずい経済状況なのはまちがいない。聞けばシェムリアップに建造中のホテルはほとんどカンボジア資本なのだとか。これで少しは潤ってくれるだろう。

根本的には、カンボジアは非常に豊かな国である。年に4回もお米がとれるし、便利なことにひとつの湖で海の魚と川の魚の両方が獲れてしまう。なんていいところなんだろう。もうウハウハなのだ。カンボジアは、1年の半分は雨季、もう半分は乾季になる。雨季にはちょっと考えられないくらいのものすごい量の雨が降り、町のかなりの部分は水没してしまうので、陸に建っている家は例外なく高床式になっている。水上生活者は季節の変わり目にお引越しを強いられるが、何しろおうちは浮いているだけだからめんどうではない。めんどうどころかおかげさまで湖は海とつながり海水魚が入ってきて、ありとあらゆる魚が獲れ放題売り放題食べ放題となる。この時期に溜まった水は、乾季に灌漑用として利用され、年4回の米の収穫を可能にしている。お米だってとれ放題炊き放題炒め放題なのだ。

なんと豊かな土地だろうか。豊かな土地では人々もおおらかになる。僕がカンボジアに恋した最大の理由はそこにあった。ごはんがいっぱいある、ではない。人々の顔がなんともいいのだ。彼らはとてもシャイで、人なつっこく、よく笑う。英語もほとんど話せないし、お金もないし、高床式の家はちょっと傾いているし、持ち物も衣服も貧しい。観光でやってくる旅行者とのギャップは大きい。でも、あのあたたかい笑顔にはかなわないな、と思った。アメリカ人や中国人や多くの国の人々は、カンボジア人に負けず劣らずシャイな日本人がちょっと恥ずかしくなるくらい異様なバカ笑いをするので、僕なんかは見ていて、だいじょうぶかな、と思ってしまうことがある。別に悪口ではない。表現は自由でいい。ただ、なんというか、とにかくそーゆーことなのだ。

カンボジアの不思議な魅力は僕をすっかり飲み込んでしまった。なぜか、カンボジアをほうっておけない気がする。断じて同情ではない。恋だ、恋!あの微笑に会うためにカンボジアに帰らなきゃ!と今でも本気で思ってしまう。

僕がシェムリアップを飛び立ったのも夜だった。FUJIBISHI製のエアコンが効きすぎなうえにSANJYO製の扇風機が狂ったように回り続けるレストランを後にして、街灯のない、まっすぐ伸びた一本しかない泥道をふたたび空港に向かいながら考えた。近い将来、ボーイング747が離着陸できる長い滑走路とエアコンのある新しい空港ができるだろう。従業員は増え、パスポートコントロールのおじさんも立派で近代的なカウンターに座っているかもしれない。荷物は自動で出てくるだろうし、せめて空港の前ぐらいは舗装されて、街灯もつくだろう。おみやげ、なんにもなかったなー。500リエル札1枚、思い出にとっておこう。ヤモリはいなくなっては困るな。カンボジアの人々は微笑み続けてくれるだろうか・・・。到着した時にはがらんとしていた体育館のような空港に、待合用のプラスチックのベンチがいくつか並べられていた。荷物検査のおばちゃんが、僕が手荷物に入れたままにしてあった爪切りを発見して大騒ぎした。「凶器ではないです。ツメです、ツメ。こうやるんです」僕は慌てて説明した。おばちゃんはしぶしぶ僕に爪切りを返してくれた。
こんなものが凶器になるわけなかろうに!
そして爪切りを知らないはずはなかろうに!おばちゃんよぉー!

まぁいいや。
嫌な気分ではなかった。
「また来ます」僕は出国審査のおじさんに日本語でそう言った。

2002/11/28

日刊ヨタばなし★スターメンバー




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